マグカップと日常と

f:id:masamiyan:20170915084706p:image

「うそ…やっちゃった。」


カバンを片手に取り、急いで家を出ようとした彼女の後ろでガチャンという音がした。
出勤前のせわしない時間。

 

とっさに振り返ってみると、そこにはお気に入りだったマグカップの破片が散らかっていた。
すぐにでも片付けたいけど、
「でも…もう、おウチを出なくちゃ。」

サキは一瞬立ち止まったが、そのまま急いで家を後にした。
そしてすぐに朝日に照らされた街のコントラストの中へ、急ぎ足で溶け込んでいった。

 

知らない誰かの体温。他人の肩越しに見る途切れ途切れの風景。
いったいどれだけの人がこの電車に乗っているのだろう。
上京するまで経験したことのない事だった。

そんな事をふと思ったが、そういった一切を遮るように目を閉じた。

 

ガタンガタンという電車のループする機械音と、イヤホンから流れる聞き慣れた音楽のBGMに身を任せた。まぶたの裏が朝日を受けて少しチカチカして、時折規則的な影がそれを横切るけど、それもすぐに気にならなくなる。

 

こうしていると、たまに昔の事を思い出す事がある。
大好きだったおばあちゃんのあの笑顔。

もうすっかり忘れてたなぁ。いつも私がお母さんに怒られて泣いてても、
「大丈夫、サキちゃんはいい子だから。」
って慰めてくれたっけ。

あと、おまけのあの黒飴。一緒に貰ったっけ。
でも…ホントはちょっと苦手だったんだ。
今だったら笑い話として言えるけど、その気持ちが嬉しかったんだよ。

 

あっ、そうだ。あの時もそうだったっけ。
男の子にいじめられて泣いてた時も、優しく声を掛けてくれたっけ。

「もう泣かないで。大丈夫、大丈夫。しょうがないね。
その子はサキちゃんがかわいくて気になるからちょっかい出したんだよ。」
そう言ってギュッとしてくれたっけ。

 

どうして今日はこんな事思い出しちゃうんだろう。
そう思って、でも無意識に涙を流していた自分にハッとした。
「やだ…どうして。」
何とか冷静を保たなくちゃ、そう思うのだけど次から次へと流れる涙はどうしようもなくて、なるべく周りに悟られないようにうつむいて泣いた。

一度涙が溢れると、もう自然と涙が流れる。なぜ自分が泣いているのかはハッキリとは分からなかった。だって、だってもう、大丈夫だって思ってたのに。

 

こんな事は初めてだった。次の駅で降りてベンチを見つけて、そこでうつ伏して泣いたのだった。

 

引き返した電車は、打って変わってすいていて、そして目にする景色はまるでモヤがかかったようだった。
人もまばらな座席、その向こうの切り取られた風景。
まるでただスクリーンに流れている映像をボーと見ているいるような不思議な感覚だった。

「私、もう…何してんだろう。」
座席脇のポールに首を寄せて寄りかかり、目の前の虚像のような景色を眺めながら思った。ただ、こぼれ落ちたその小さなつぶやきは、そのまま反復する車両音に飲み込まれてしまった。

相変わらず、目の前のモヤのかかった景色はそのままで、まるで彼女の存在を感知しないかのようにそこにあり続けた。

 

ぐるぐると言葉にできない思考が頭の中に現れては巡っている。
考える事を止めようとするのだけれど、胸の奥の方にモヤモヤとした違和感だけが残っていて、どうしても落ち着く事ができない。

もう今は、何も思う事は止めよう。
そうして彼女は、ただ家につく事だけに集中した。


玄関のドアを開け、朝のままになったマグカップを見つけるとサキは小さく呟いた。
「壊れちゃった。」
そう言って、マグカップを拾い上げようとしてしゃがみこんで手を伸ばしたその瞬間、手の甲にぽたっと何か冷たいものがこぼれ落ちた。そのまま、ぽたりぽたりと涙が床に落ちた。せきを切ったように涙は溢れてきて、止まらなくて、膝を抱えて、小さく肩を揺らして泣き続けた。

 

嗚咽と涙でぐちゃぐちゃになりながらも、それでもこらえたようにしか彼女は泣けなかった。それが彼女の精一杯だった。こんな時、声をあげて泣いた方がいいんだけど。

 

分かってるの、そんなの。
あの日、我慢しないで泣けてたらどんなに良かったか。
喉の奥のつっかえを吐き出すかのように、絞り出すかのように泣くしかできなかった。

しばらくして落ち着いた彼女はマグカップを拾い上げながら呟いた。
「大事にしてたのに、壊れちゃったなぁ。」

 

そしてふと近くの姿見に写った自分を見て笑いながら言った。

「ひどい顔だね。」

そして鏡を見据えこう言ったのだった。

「大丈夫、大丈夫。サキちゃんなら大丈夫だから。」

 

まるで鏡の向こうの自分を諭すようにサキは目の前の自分に言い聞かせた。
そして両手で頬をたたくと、「よし。」と小さく、でも力強く呟いて洗面所へ向かったのだった。