あの日のフォークロアー
- 物質の記憶-
それは、とても不思議な天気の日だった。
突然の雨に足止めをくらった僕らは近くの喫茶店に入った。
店内には、僕と彼女、そして向こうの席にはカップルが1組。
席に通されて落ち着くと、彼女は言った。
「…変な話してもいい?」
僕はこくりとうなづいた。
「物にね、記憶って宿ると思う?」
僕は一瞬、きょとんとした。そんな事…考えたこともなかった。
その僕の戸惑いを察してか、彼女はまた話しだした。
「昔ね、ある人に聞いた話なんだけど、人は体験したものだけを憶えているんじゃなくて、実は昔からの記憶をもって生まれてくるんだって。でも、その大昔の記憶は、普段思い出すことはまずなくて、体の奥の方で眠ってるんだって。これも、頭の奥の方じゃなくて体の奥の方ね。」
ちょうど、そのタイミングで注文していたコーヒーが運ばれてきた。
彼女はカップを口元へと運び一口つけたあと、また先ほどの続きを話し始めた。
「よく波長が合うとか、合わないとかあるでしょ。あれって本当に波長が関係してるんだって。花や木や、石みたいな無機質なものでも、固有の周波数を持ってるって何かの本で読んだの。それでさっきの話に戻るけど、あっ、ここからは私の考えも入ってるんだけどね。例えば、私たちが今手に持っているカップあるでしょ。これはある周波数の信号を送っているの。それで、私たちと合う波長のものだとラジオの受信機みたいにキャッチすることができるの。」
「でも、それと記憶ってどう関係するんだい?」
僕は尋ねてみた。
「そうね、その…記憶ってそのものだけだと意味をなさないものだけれど、例えば、今かかているレコードあるでしょ。あれはプレーヤーがあって聞く人がいて初めて意味を持つの。記憶もそう。ある物質が信号を送って、私たちがそれを受けてそれに対する記憶を無意識の中から拾い上げてるんじゃないかしら。」
そう言って、また口元にカップを運ぶ彼女を見た。
窓の外はしとしと降る雨が優しくて、そして雲の隙間から太陽が顔を出す度に世界が美しく照らしだされているような気がして、すごく神秘的に映った。
「それとね、花や、木や動物が美しくあるのはこの世界が美しい世界だった事の記憶を思い出されるためなの…。」
彼女は窓の外を見つめながら、そう付け足した。
- 月にまつわる童話 -
「あの、のぞき穴を見て。」
彼女は満月を指さして言った。
おもしろい比喩だな、まんまるなその月を見て僕は思った。
食事を終えた僕らは、その小洒落たレストランを後にした。
「せっかくの満月だから、ちょっと散歩して帰らない。」
そう言ったのは彼女の方だった。
「そうだね。」
僕は頷いた。
そうして、公園を抜け小高い丘のベンチを目指した。
次第に樹々で塞がれていた視界が開け、ベンチに腰掛ける頃には僕らは満天の星空の下にいた。その中でもひときわ明るく輝く月はきれいだった。
「昔から月は女性の象徴って言うでしょ。あれは単なる例えではないの。」
彼女は続けた。
「これはね、もう空想のような話なんだけど、今いる世界はまるで地球儀の様になっていてね。小さな女の子があの、のぞき穴からこちらをのぞいてるんだって。大っきなウサギさんのぬいぐるみを抱えてね。そう、あっちから見るとこちらからの家々の灯りがまるで星空のように映るんだって。」
僕は彼女の話をじっと聞いていた。
月のやわらかい光が彼女の表情に淡い陰影を作り出していた。
ただただ、その横顔に見とれていたのだ。
そして彼女はふとこちらを向きイタズラっぽくこう言った。
「月が満ち欠けするのは、少女が物思いにふけて目を閉じるからなのよ。」
そう言うと、ちょっとはにかみながら目をつむってみせた。
そう、僕は目の前の少女にやさしくキスをした。
彼女は、ちょっと気恥ずかしそうな笑みを浮かべ、僕の目を見つめて言った。
「大好き。」
その仕草がたまらなくうれしくて僕は彼女を抱きしめた。